昭和59年11月23日 月次祭



 天地の中に満ち溢れておる御恩恵を、心一つでこの身に受けて行けれる手立てを、鮮明にみやすう頂けれる術を体験され、またそれを教えて下さったのが、教祖生神金光大神だと思います。天地に氏子幸せにさずにおかんという働きが満ち溢れておるのです。それを例えばこの世は苦の世だ苦の世界だと思うたり、あれは夏目漱石の言葉でしたかね、「地に走れば角が立つ、性に走れば流される、とかく浮世は住みにくい。」となんかそんな言葉を残しております。
 本当にこの世は住みにくいものであろうか、本当にこの世は苦の世苦の世界であろうか、いやそうではない。とお道の信心をさせて頂く者がね、お道の信心により真の信心によってね、この世を又とない有り難い喜びの世界、嬉しい世界にして行けれる術を教えられておるのでございますから、その教えを身に付け、いわゆる血に肉にさせて頂いて、本当に有り難いまぁいうならばこの世極楽、という世界を心の上にも形の上にも頂いてゆかねばなりません。
 それにはね、教祖様が歩かれた道を私共も歩かせて頂かなければ、はぁ例えばたいていの宗教というのは、まぁ大変な難行苦行をしてそこから、まぁ( ? )安心の境地を目指すと言うのですけれども、お道の信心はね、みやすう誰でもねその教えに従うた生き方を実行させて頂いておる内に、段々そのうま安心な心、いわゆるこの世で極楽の心を頂いて、この心がそのまままたあの世までも持って行けれる、という確信を持って安心の生活安心のおかげが頂かれる。
 昨日或方達が私のところにお願いに見えました。兄弟親戚の皆さん皆んな10人ぐらいでしたでしょうねいっぱい見えられて。奥さんが癌よりも悪質な病気だとまぁ診断されたと言うのです。どうぞおかげを頂く様にと言う事でございました。神様に御取次ぎをさせて頂きましたら、その方が安全剃りでひげを当たっておるところを頂きました。ははぁ無精ひげをせずに、ひげをまめに当たって行くと言う事で心配はいらん、おかげをやるぞ安全だと言う風に頂きました。
 それで言わば御教えに今日頂いた御教えに則したね、自分で鏡を見ればひげが生えておるか気分でもこう無精ひげをしとれば気分が悪いけれども、サッパリひげを剃って居れば気分いい様に、怠らず髭を剃って行くと言う気になり、自分が何処を改め、どこをどう生きて行く事が、御教えに叶う事かと言う事に焦点を置いて、日々いわゆるサッパリと髭を当たって行くと言う心が、出来ればおかげになる。お互いの信心もやはりそういう所から信心が始まって。
 教えを頂けば頂くほど確かに成程これこそ天地の道理合うた信心だと分らし貰い、この生き方で行けば安全だ。というところからこの生き方で行けばいよいよ、この世だけではないあの世までも安心の魂として、おかげを頂いて行く事が出来ると、分かった時悟れた時に初めて、いわゆる安全が安心のおかげと言う事になるのじゃないでしょうか。だからそういうまぁおかげを目指しての信心に、お互いならせて頂かなければならない。この世にはにこにこ幸せにせずにはおかんと言うね神様の御心が満ち溢れておる。
 だからそれを頂いて行く事である。今日は何事からだったか、まぁ本当に毎日毎日嬉しい心が頂け、これをこんなに有り難い勿体無いは勿論だけれども、それに嬉しいと言うのが何時も絶えず心の底からこう湧いておる様なもの。身体をこの様に不自由になり、目は薄くなり耳は遠くなり、それなのにも関らず心から嬉しい心が涌いて来る。なるほどおかげを頂いて、手がないならば手に足がないならば足に。手にも足にもなって下さる方達がここへ私の周囲にある。
 もう第一に嬉しい事は、食事が非常に美味しいと言う事。非常に安眠のおかげを頂くと言う事が。取り立ててどこが痛い苦しいと言う事はない。もうどんなに考えても、これは本当の嬉しさ本当の喜びじゃないのじゃないだろうかと、ほんとこう思わせて頂いたら御心眼に、大海にクジラが潮を吹いておるところを頂きました。四神様の御教えの中に、竹の筒にはボウフラが湧く、大海にはクジラが住もうがという御教えがございます。小さい事にこだわらず大きな信心をせよと。大海のような信心をせよ。
 そこにはクジラの住む様なおかげにもなるぞという御教えでございますが。正しく私にはクジラの住むほどのおかげを受けておると言う事は。そういうおかげを受ける言うならば元と言うか、そういう器と言うか、段々それが本当なものに成って来ておるからこそ、この様なおかげになって来ておるんだと。この前のお月次祭に、式席是空と言う様な言葉を使ってお話したですね。というのはこだわらないと言う事だと簡単に言えば。と言う事だと言う事でしたが、お道の信心はあのうこだわらないと言う事だけではなくて。
 その普通ならばこだわらなければならない、心配しなければならない、焦燥でなからなければならないと言う時に、焦燥も無からなければ不平不足もない。こだわらないだけではなくてその事に対して、お礼が言えれる心の状態。こだわるどころかお礼が言えれる状態。現在私の場合はね、お広前のお御用も出来ません。けれどもおかげを頂いて、私の願い、私の祈りの手にも足にもなって下さる先生方で、やっぱ合楽教会が増々繁盛のおかげ頂いておる。
 思えば思う程本当におかげの世界にある。なるほどこの世に天地の親神様のお生かしをせねば置かんという働きが、満ち溢れておるところの中に私はある。その私が病気をする、いやその病気とても、クジラの住むほどの大海には、様々ないうならゴミ・アクタと言った様なものも流れ込むであろうけれども、そう言う事には無頓着、そう言う事には関り合わず。ただ心のいよいよ豊かに大きくなる事だけを願っての生き方の中に、例えば私がなら病気なら病気と言う、それはもう大海のおかげの中の一部である。
 全然アクタが流れ込んだか来ないか分からないほどに、そこにむしろ喜びすら嬉しい心すら起こって来るほどしのおかげの中にあるのだ。例えば下駄を履きましても鼻緒が切れただけでも歩きにくい、歯が欠けたら尚歩きにくい。私共がもしこの世、もしこの世がねとかくこの世は住みにくいと感じたり、この世は苦の世苦の世界だと、だから仕方がないと言った様なものが心の中にあるならば、そういう心を一掃するために、いよいよ自らのいわゆる欠けたものを、いわゆる下駄の歯が欠けても歩きにくい。
 鼻緒が切れればなお歩きにくい。鼻緒を立て下駄の歯を据替てこの世を歩き良い、この世を有り難い世の中に、またそういう世界に住まわせてもろうて修行。無精髭をせずに絶えず家が空いたら、安全剃りをもって綺麗にする。それが段々ね安全が安全ん感の生活が出来るようになり。この生き方で行けば極楽行は間違いない、この生き方で行けば安心のおかげが受けられる。とそこに目標を目指しを定めて日夜怠らぬように、教えの行者と言うときつかごたるですけれども。
 それが血肉になるところまで、いわば教えに徹していく生き方を、身に付けて行かなければならんと思います。私共が信心を頂いておって、ただお願いをしておかげを受ける、あぁあらたかな神様だこれは私の大坪家の場合でも、私の婆が御神縁を頂ね両親がおかげを頂いて。そしてまぁ分らんなりに神様を拝む様になり。けれども考えて見ると今日皆さんに聞いて頂いたようなところへ、目指した信心ではなくて、とにかくおかげを頂くと言う事だけで、まぁ親子そして孫の私と言う事に伝わって来たんですけれども。
 もう細々ながらにでもそうして伝わっていっておれば、いつか何かの調子に、まぁ言うならば真の信心に目覚めると言うか、そういうお繰り合わせを頂く。今日も福岡の徳久さんと言うて、椛目の時代に熱心に参って来たおりました、久し振りで今日親子3人で参拝をして参って、私の所へ見えられる。もう本当に私がこうやって信心をさして頂きますから、子供達も金光様を拝む様になり、孫達ももう皆んな私のまぁ真似の様な事ですけれども、金光様を拝む、本当に有り難い事だとそれを聞いて思う。
 細々でもね子に孫に伝わっていっとれば徳久さんいつか何かの調子に、いわゆる本当に信人を打ち込みさせて頂かずにはおれない、真の信心に目覚める時が来るから、まぁ細々でも続いて、子が孫が反対をせんと言うだけでも有り難いな。そういう信心の基礎基盤をしっかり作って行く、おかなければならないなというて、まぁ話した事でございますが。お互いの信心も子が孫が真似でもよいから付いて来る様な信心をさして頂いて。そしてならこれ私はなら婆の時代から親達の時代。
 ただ新たかなおかげが受けられると言うだけではなくて。そこに教祖金光大神の本当の信心、いわゆるこの世は苦の世でも、住みにくいと言うところでもなくて、本当に人間の幸せ情件と言った様なものが、この世の中には満ち溢れておる。それを頂きとめる心は真である。真の信心を指してもろうて、下駄の鼻緒が切れておるからる気難いんだ。下駄の歯が欠けておるから、とかくこの世は住みにくいと言う様な事になっておるのだ。その真を追及させて頂いて何かの切っ掛けを頂いて。
 昨日お取次ぎさせて頂きました様に、奥さんが言うならば癌以上の悪質の、まぁこの喉に喉頭がんですかちゃ喉頭がんよりももっと悪い一種の癌だそうですが、したら神様はそう言う事で医者は例えばなら難しいというても、神様は助けようとして下さろうとしておる。それには安全材を安全をより多くいつもまめに無精髭を生やすなと、その言うならば心掛けをもって信心させて頂く所に、この世は有り難い世界に変わって行く事でしょう。そしてその安全が積み重ねられて、はぁこの生き方いつも心を綺麗にして行く、いつも新たな事に焦点を置いて、いつも自分の心を豊かに大きくしていく。
 こだわりのないいやこだわり所ではない。お礼が言えれる心の状態を、お互いの信心生活の中にはっきりと見極めながら、おかげを頂いて行く所から、生れて来るのが安心であります。この生き方で行けばこの世でも勿論、あの世までも喜びの御霊安心の御霊として見極めがついて、この信心が続けられて行く所に、初めて成程天地の中には氏子幸せにせずにはおかんという、働きだけしかないやつの働きが満ち溢れておるんだという、いわゆる実感を持っていよいよ信心の稽古に励まして頂かなねばならんと思います。
   どうぞ。